喜らくのご紹介

喜らくのはじまり

お客様あってこその喜らく
「貴船 喜らく」は、三度の水害で被害を受けたにも関わらず、立ち直ってまいりました。お客様に支えられてきたお店の歴史を、ここにご紹介いたします。

九谷屋創業

大正10年。貴船神社前に、鞍馬寺・貴船神社の行者さん達の旅籠として創業いたしました。もともと貴船一帯は国有林に囲まれ、山林業に携わる人も多かった地域。初代女将 九谷きぬの夫も山林業を営んでおりましたが、早くに亡くなりました。きぬは幼い子供たちのため、生計を立てるため、「貴船喜らく」の前身である「九谷屋」をはじめたのです。

当時はまだ川床もなく、人通りも少なかったため、多くの人でにぎわうのはお盆とお正月くらい。そんな中、きぬは訪れるお客様を大切にし、いつも腰が低かったといいます。お客様を大切にしていたおかげなのでしょうか。

昭和10年の水害・太平洋戦争をくぐりぬけた「九谷屋」は、戦後「貴船 喜らく」として発展していきます。

九谷屋を創業した初代女将
九谷きぬ

料理旅館 喜らくの誕生

(左) 「貴船 喜らく」の礎をつくった二代目林造(写真:左)
(右) 店の前でお客様をお出迎えする二代目女将三子

初代女将きぬの息子・林造は、14歳から御所にゆかりがある京都西陣の老舗料亭へ修行に出ておりました。太平洋戦争で一時徴兵されるも、無事復員。終戦後の昭和21年、林造は「九谷屋」を料理旅館「貴船 喜らく」として新たにスタートさせます。修業で磨いてきた技を生かし、料理長として腕をふるうこととなるのです。

貴船に戻ってきてまもなく、林造は妻三子を迎えます。昭和24年になると、夏の名物となる川床の営業が本格化。夫婦は力を合わせお店を盛りたてていきますが、翌年には再び台風の被害に見舞われます。店が軌道に乗ろうとしていたのもつかの間、またもや増水した貴船川に押し流されてしまいました。

川床の準備をする大原女の衣装をつけた仲居さん

喜らく流のおもてなし

昭和30年代の「貴船 喜らく」の様子

さらに約10年後の昭和34年にも、集中豪雨による土砂崩れに襲われます。店を流されるといった被害を受けたにもかかわらず、お客様のために二度、三度と店を建て直してきた「貴船 喜らく」。その後、貴船がにぎわってくるとともに、林造は喜らくならではの趣向でお客様をおもてなしするようになります。

たとえば夜、電車で到着したお客様を小田原ちょうちんでお出迎えする風流なおもてなし。また、猟師でもあった林造は、訪れたお客様とともに山へ入り、猪や鳥、松茸を採り、その場でお客様にふるまったといいます。当時だからこそ体験できた、自然の中で味わう野趣あふれる料理。そんな喜らくをひいきにしてくださるお客様も増えていきました。

百貨店の指定旅館としてにぎわっていた頃

受け継がれるおもてなしの心

お客様の身になってお出迎えする心。それは初代女将から今にいたるまで脈々と受け継がれています。気さくで楽しい二代目女将三子は、お客様が心地よく過ごせるように、と常に心配りを忘れません。今も看板女将として、店の前でお客様をお出迎えしています。

お客様に喜んでもらい、楽しんでいただける料理。ひとりひとりのお客様がくつろげるおもてなし。その思いが届いているのでしょうか、「貴船 喜らく」の歩みと同じく、お客様も三代に渡ってごひいきにしてくださる方もいらっしゃいます。お客様の思いに応え、これからも貴船の自然、そして喜らくの料理とおもてなしでお客様をお出迎えしていきたいと考えております。

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